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2022.04.11

ウイングトラベル

【特別寄稿】■山田學氏を偲ぶ

株式会社風の旅行社 代表取締役 原優二

 

 3月29日亡くなられた全日空ワールド(現在のANA X株式会社)元副社長山田學氏の追悼文を書いてほしいと、本紙の石原編集統括から電話を頂き喜んでお引き受けした。私的な感情を優先させるようで申し訳ないが、ここでは塾長と呼ばせていただきたい。
 山田さんは、1999年にトラベルジャーナル誌35周年記念のメセナ事業として始まった旅行産業経営塾(以下、塾と記す)の初代塾長に、旧友である同誌の森谷哲也代表(故人)から「學ちゃん、全日空ワールドの顧問を引退したならこんど経営塾始めるから塾長やってよ」と懇願され就任。塾の名称を「旅行産業経営塾BSTi(Business School of Travel Industry)」と指定された。旅行産業=Travel Industryの産業としての確立・発展に強くこだわってのことだ。私は、その塾の第1期生として薫陶を受けた。故に私にとっては今も塾長である。私のみならず、約400名に及ぶ塾生たちも多大なる影響を受け今日がある。
 塾は、知識を学ぶところではない。ものの見方、考え方、そして決め方を学ぶところだ。志を高く掲げよ。仕事はお客様に喜んでもらうためにやるんだ。人を喜ばせて金が貰える。こんないい仕事はない。自分の仕事に誇りを持て。旅行産業よ、旅行産業たれ!あの力強い口調が、顔が今も鮮明に浮かんでくる。もちろん塾は精神論ばかりをやっているわけではない。むしろ知識の習得にかける時間の方が多い。ただ、私自身の心がけのせいか知識は身につかなかった。だが、その時に感じたこと、思ったこと、決めたことが、今の自分を支えてくれている。

 私は、塾長が顧問となって現役を退いた1997年に面識を得た。したがって、私ばかりか塾生もみな塾長の現役時代を知らない。まさに伝説。その業績は凄まじい。日本ツーリストと近畿日本航空観光が合併した直後の1956年に近畿日本ツーリストに入社。名古屋、福岡、大阪、東京と勤務し、国際畑一筋で数々の実績を上げた。1964年東京オリンピックのフェリー便を使って日本初の海外チャーター便を実施し約3000名を欧米へ送客。これを皮切りに次々とチャーターを手がけることになる。JTBには総合力では全く歯が立たないが、チャーターなら負けない。まさに一点突破で勝てる領域を見つける。負けず嫌いの塾長らしい。
 例えば、1968年、羽田に眠っている飛行機を起こせ、とばかりに羽田空港で夜間駐機していた飛行機を使って朝までに香港・台湾を往復させる夜這いチャーターを実施。60日で58便を飛ばした。1970年には、BA木曜便の全Y席(約100席)を一年間買い取り、スキーツアーや聖地巡礼ツアーを企画してすべて売り切った。この時、その後業界の常識になったが、日本で初めてツアー代金にシーズナリティーを導入している。1971年、懸賞旅行上限10万円の壁を破るため座席数の多いDC8ストレッチャーを米国から引っ張て来てチャーターし99,900円(トリプルナイン)のハワイ旅行を実現。これを業界からダンピングと批判され、それに謝罪した会社に憤慨して退社。翌年、ハローワールド設立。後に全日空ワールドとなり、全日空の国際線参入に多大な貢献をした。
 よく「なんでそんなこと思いつくんですか」と部下たちも尋ねたというが、湾岸戦争では、海外旅行への不安を払拭すれば売れると考え「2人催行添乗員付きツアー」に打って出た。実際には10人、15人という単位で殆ど催行したから、他社が販売を落とすのを横目に販売を伸ばしてしまった。
 海外旅行をカウンターで女性が販売することを始めたのも塾長である。それまでは、海外旅行は営業マンが足で売り歩くものだと部下は反対したが、時代の変化をいち早く感じ取っての断行だった。ハワイで到着後すぐチェックインをするアーリーチャックインを始めたのも塾長である。
 私たち塾OBは塾長の軌跡を記録に残したいと考え、2013年に『旅は人に生きる喜びを与えるものです』(ポット出版)という本を出した。塾長の生き方、考え方、実績、アイデアの数々を知りたい方は、是非、この本をお読みいただきたい。

 コロナ禍となって3か月ほどしたころ、塾長は「廃業、倒産も相次ぐだろうが、ピンチはチャンスだ。今こそ攻め時だ」とおっしゃっていた。しかし、私はまったく逆の選択をした。社員には「長期戦になる。今は我慢をして動くな。まずは、自分と家族を守れ。今は仕事が全くないのが最大の武器。全員で目一杯休業して雇調金を取りに行く。海外旅行が再開するときが一番しんどくなるから、今のうちに副業して金をためておけ」と指示した。
 塾長から学んだことは「自分で見て、考えて、自分で決める」ということだ。塾長や他人のいうことに盲従することではない。また、何が正しいかでもない。正しくてもやり切れなければ意味がない。私は、これを自立・自律という言葉で置き換えている。
 最期は、意識もなくなっていたらしいが家族と面会し穏やかに旅立たれたそうだ。奥様曰く「生き切ったんじゃないでしょうか」。長期入院中もコロナ禍で面会も叶わなかったが、その言葉をお聞きし心底安堵した。合掌。

 

※写真=山田學氏(旅行産業経営塾ホームページより)